政府高官を巻き込んで昭和53年に告発された汚職事件「ダグラス・グラマン事件」
河合は証人喚問の随伴者として国会へ。切り札は自己負罪拒否特権!
昭和54年(1979年)TVの前では元総理大臣2人、その後に総理大臣になった人1人を含む政界を揺るがす巨大汚職事件「ダグラス・グラマン事件」の国会証人喚問の生中継に釘付けになる人々がたくさんいました。その時に証人喚問を受けた一人が日商岩井航空機部課長代理だった有森國雄氏。河合は有森氏証人喚問の随伴者として国会に入りました。
当時の衆議院予算委員会の証人喚問は大変厳しいものだったため、答弁に窮しないよう河合は有森側と綿密な事前打ち合わせを行いました。この頃、すでに「記憶にございません」は証人喚問で使われており流行語化していた上に、あやふやな発言が不信感を惹起することも踏まえ、証人に嘘をつかせず、不利な発言をせずに済むよう、河合は考え抜いたと言います。考え抜いた末の方法論が<自己負罪拒否特権>でした。憲法に規定されている「何人も自己に不利な供述を強要されない」という権利の行使です。
「自分が起訴された時に不利になりますので、その証言はできない」というものでした。この一連の国会生中継では、証人たちの震える手、額に浮かぶ脂汗など、言葉には出さなくても証人たちが窮する様が大きく話題になっていた中で、有森・河合コンビは<自己負罪拒否特権>を行使して証人喚問を切り抜けることができたのです。有森氏は事件本体においては罪に問われることはありませんでした。
当時、河合弘之35歳。これ以降、政財界の事件の用心棒弁護士として大舞台に登場していくことになるのです。